ガンで去った父とたまに夢で会う

dream

先日の記事で父のことを書いたからだろうか。夢に父が出てきた。父は2019年12月に2年半の闘病の末に肺ガンが脳転移して息を引き取った。抗がん剤がよく効いたため、心臓に水が溜まったり、てんかんのような発作で意識を失ったりと何度か死線をくぐったものの、死ぬ半年前まで一緒に旅行もする程度には元気な期間も長かった。

肺ガンは脳転移しやすいガンだ。そして父は脳転移を発症後、無くなる10か月前に数カ所、半年前に十数箇所と徐々に数を増していき、最後は認知症のように人格を変化させて永眠した。
手術の断念、抗がん剤数種、ガンマーナイフ、全脳照射と一通りの経過をそばで見ていたので、しばしば心が凍えてしまうような気持ちを味わった。本人があまり現実を認識できていないような最期の日々だったのが救いに思えたものだ。

ガン家族は第二の患者だというが、ご多分にもれず、私も父のガンの告知に立ち会ったその日からネットの肺ガン記事を読み漁った。
患者本人のブログは大体途中で終わって家族にバトンタッチすることが多い。家族の立ち合い記録は治療内容が主で、どんなに探しても結局、父に対して何をすればいいのかさっぱり分からなかった。
友人の中には親しい人を亡くしている人も思い至ったが、結局苦しい胸の内をさらすことができず、尋ねられずじまいだった。

そんな分からなさの一助として、このブログにも当時の気持ちを掲載したいなぁと思っていたのだが、原稿メモはあれど、書き途中の記事はあれど中々1つの記事を書ききるに至らなかった。やはり書いていて涙が出てきてしまうからだろう。

当時の自分が知りたかったことを書いておこうと思う。
まずは、旅行をできるだけ早く一緒に行きまくり、ためらわず一緒に写真を撮るのがオススメだ。幸いにも私はライフログを残すのが趣味だったので、病気前から家族写真や動画を撮る習慣があった。
父が病を得た後も様々な写真を撮影しているが、当時の動画や写真は、時間が経てば経つほど大切に思えてくる。

最後覚えている姿は苦しいものも多いので、旅行のアルバムを見ているとほっとするというか。穏やかに微笑んでいるのを見ると、確かに幸せに過ごしていた時間があったのだなと思えて心が慰められるのだ。アルバムにはしまうまプリントがおすすめ!である。

そしてもう1つは自分の生活を大切にすることだ。今現在、過去を振り返ると死の1週間前、1か月前、3か月前、半年前と言うことがわかっているのだが、渦中は終わりが見えない。これが闘病に伴走していく中で1番苦しいところだと思う。

いつまで戦わなければならないのか、少しでも長く生きて欲しいけど、ずっとこの苦しいのが続くのか。ごくごく最後の瞬間まで分からない。それが1番しんどい。

私自身が最も躊躇したのはロンドン旅行だった。予約した旅行8か月前はまさに脳転移が発見されて、父の余命カウントダウンが本格化したあたりだった。
果たして8か月後のロンドンは行ける状況なのか、そして行ける心境なのだろうか。そもそも父はまだ生きているのだろうか。全く霧の中であった。ロンドンだけに(まさかの駄洒落。

しかし、サラリーマンにとって海外観劇のチャンスもまた、一生にふんだんにある機会ではないのである。大型連休は限られているし、予算の範囲内の旅行をするには半年以上前に宿と航空券を押さえなければならない。
ええいままよ、と航空券と宿ともにクレジットカードを切ったのを覚えている。

結局、父が冥土へ旅立った2週間後2019年末に、私もロンドンへと出発することになった。大晦日にレミゼを観て、死にゆくバルジャンに涙が止まらなくなり、ハリーとセブルスの親子の話に心が千々に乱れた忘れがたい観劇旅行になった。

今は、海外旅行のキャンセル保険も充実しているし大手のパック旅行だと数ヶ月前までキャンセルも効くので、海外旅行勢は恐れずに予定を組むのをオススメする。

また、実家住まいだったが仕事の都合などで転居で実家を出る決断をしたのが、亡くなる1年半年前だった。自分の人生の主役は自分だ。親が亡くなっても生活は続いていく。親を理由に自分の人生を後回しにしていると、心が死んでしまうように思う。

いずれにしても、仕事をしている場合は最期の瞬間に立ち会える保証がない日々を送る、というのが過ごして学んだところだ。
土日のたびに病院に顔を出していたのだが、これが言葉を交わすのが最後かもしれない、その覚悟を持って病室を後にする必要があった。

旅行があろうが、仕事があろうが、別れの日は実際はほんの短い時間なので、予定を空けてじっと待つ必要は無い。精一杯の日常を楽しく送って、臨機応変に対応するスタンスでも良い。

親との別れが迫っても、自分を優先して日常を送ってもいいのだ。そして、その日々が後悔とならないように、それからの人生を歩むしか無いのだ。
父の発作後の入院、余命1か月を宣告されてからこの心境に至るのに随分かかったので、先に教えておいて欲しかったなと思ったことの1つである。

また、父の場合、最後2か月ほどはせん妄も入り意思の疎通が難しいことが多かったので、もっと前、本人の体調が良い時に多くの時間を費やす方が双方にとって良かったように思った。使い古されたフレーズだが、親孝行は今がベストである。

以上が、2年半をもって学んだことだ。

亡くなる2か月前、発作を起こして入院中の時に父の横でのんびりブログを更新していたのが穏やかに二人で時間を過ごしたラストの記憶だ。

頭痛に唸りながらもテレビを見ていた父の隣で、私はリングフィットアドベンチャーのレポート記事を書いていた。その記事は結局お蔵入りになってしまったけど、秋の優しい日差しの病室で過ごしたなんでもない父娘の時間を、この先もずっと懐かしむだろう。

闘病の間の感情は綺麗なものだけでなく、父も聖人君子でもなんでもなかったので、不満や怒りなどもっと生々しいものもたくさんあるのだが、当時のメモを見るのはまだパワーが必要なのでこの辺にしておきたい。

途中で、たくさんの舞台に助けられたこと(家に帰るのがしんどすぎて週2回舞台に通っていたことも時期もあった)、特にFun Homeに救われた話などもいつか書けたらと思う。

また、私は家族関係が平和で近くに住んでいたためこのような体験記となっているが、生き方同様、家族のあり方とガン患者の家族の関わり方もそれぞれだと言うことは一言添えておきたい。

49日あたりで1度、半年前くらいに1度、そして先週と父は夢に出てきている。結構リアルであるので、私はこれを父の訪れと思っている。

49日の時には、蝶が乱れ飛ぶような美しい平原に船が浮いていてパレードのようなものが行われていた。ガラス越しの観客席に私も座って歓声をあげていたのだが、ふと隣を見ると父もいるではないか。

パレードの上には綺麗なお姉さんがたくさん踊っていて、父がめちゃめちゃテンション上げていた。もう、またそんなことして!とこちらから声をかけたら、びっくりしたようにこちらを見て、そこで目が覚めた。

49日をエンジョイしている姿を見咎められて驚いたのかもしれぬ。そう思った。父は乃木坂が好きだったので、フェミニストを自称する自分はその件で大変対立したものだった。

先週は、本やなんかが置いてあった書斎だったように思う。政治や経済の話の議論相手はいつも父だった。そんな父とひとしきり話して、ああやっぱ落ち着くなと思ったものだ。
でも、そういえばいないんだったね。「あなたがいなくなって寂しいよ」そう声をかけると、くしゃっと父も泣きそうな顔になり、そして目が覚めた。

確かに伝わったのだという感覚があって、そしてその気持ちが胸に染み込むにつれ涙がこぼれた。あまり考えないようにしてきたが、いなくなった日常が積み上がるにつれて、ふと不在を突きつけられる。

元々眠りが大変深く、目が覚めるときは悪夢の時だった。起きないとまずいことになる時、またはまずいことになった瞬間に目が覚めることがごくまれにあった。しかし、そんな眠りから覚める瞬間に父の訪問が加わるようになったのだ。忘れた頃にやってくるのが、のんびりしている彼らしいと思う。