どもども、チラ見しようとしたバーフバリを全部見てしまったケイです。設定とストーリーは完璧なのだけど、矛盾を起こさないために多大なる別事象が発生していた。合理的な映画の極みを見た気がした。
今年は歌舞伎に詳しくなることをテーマとしているので、ちょくちょく歌舞伎を観に行っている。今回はついに!にざたまこと、片岡仁左衛門と坂東玉三郎を見てきた。
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ニザタマオーラを浴びる
私が今年歌舞伎を観に行こうと思ったきっかけの一つは、ウェストエンダーさんのブログだった。その中でも特ににざたま記述が多くて、ついに!と観てきたのであった。
▼ウエストエンダーさんのバレエと歌舞伎と舞台のブログ
「明日もシアター日和」
今回もイヤホンガイドをレンタルした。専門家が自分の言葉でライブで語りかけてくださる、こちらも芸だと思う。出演者は下記です。
▼イヤホンガイド公式サイト
今月の観どころ・聴きどころ
於染久松色読販
長い連続ドラマの1回分を切り出す歌舞伎様式の極み、悪巧みをする脇役夫婦がゆすりをかけて失敗するまでを描いた作品だった。
本来は早着替えが見どころの作品を本歌取りして、登場する死体に着替えをさせる趣向です・・・などガイドの解説にワクワクした。古典のオペラや演劇を現代演出しているのを見るのがすごく好きなのだが、それに近い喜びを感じた。
途中「そだねー!」が登場、笑った。歌舞伎も時事ネタするんだなぁ。
にざたまに悪役をさせるという演出も、スター二人がカゴを持ってえっちらおっちら退場して行くのも、贅沢のひと言のお芝居だった。
そして、坂東玉三郎の実物は、こんなに色っぽいんだな!!レミゼで言うマダムテナルディエ的な場末のおばちゃんなのだが、崩して座る襟元からこぼれ落ちる色気。所作がとろけるようで、67歳男性にこんなにドキドキしてしまうのかと思った。
神田祭
会場全体を包む待ってました!の雰囲気があった。片岡仁左衛門扮する大工の棟梁と、坂東玉三郎扮する芸者がイチャイチャする話。そんだけだよなーと思っていたが、イチャイチャが予想以上で、待って!見てるこっちが恥ずかしい(^0^)
大きな立ち回りは若手が中心で、二人は中央でヒラヒラ舞っているだけなのだけど、途中で顔に手を当てて艶やかに笑いあったり、最後花道では芸者の裾の誇りを棟梁が払ってあげて、そのまま手を繋いで退場したり。ごちそうさまです(^0^)
会場もやんややんやの大喝采。筆者はと言うと片岡仁左衛門のもろ肌脱いだのに卒倒しそうになり、オペラグラスでガン見していた。1人ずつでも目が話せないのに、この2人がセットでイチャイチャしている時の破壊力たるや!!お二人が若かりし頃であれば、結構真面目にどハマりしてしまいそうなので今見に行って良かったかもしれない。
滝の白糸
うーーーん。脚本、演出、出演者と舞台装置もろもろがミスマッチ……に思えて、最後まではまらず。ここまで、なぜ!?と思う観劇は久しぶりだった。
一度新国立劇場のオペラで観てすごく感動したので、私自身の「こうあってほしい滝の白糸」が強すぎたのだとは思う。また、花道がちゃんと見える席がいい!と今回は高価な席を取ったので、元を取らねばという気持ちが働いたせいでもある(溢れ出る庶民根性。
以下、あまりポジティブではないので、注意です。もろもろ初心者のひとり言です。
滝の白糸のキャラクター性
タイトルロールである、旅一座の太夫、滝の白糸役はこの芝居の屋台骨だ。少し言葉を交わしただけの欣弥に惚れ込み、仕送りを続け、金の工面に思いつめて殺人を犯す。会ったことも無い欣弥の母の面倒をも見るのだ。情念の女だ。
姉御肌で純粋な滝の白糸
滝の白糸を成立させる動機はいくつかあると思う。ロミジュリでよくある様に、若さが成せる純粋さが一番近い様に思う。滝の白糸は齡24なのだ。他にも、真面目で東京で名を成していく欣弥に自己実現を重ねる、でもいいかもしれない。依存型だ。
椿姫やトスカのように、太夫である苦しみから来る純愛願望などでも納得できると思う。
上記が組み合わさり、欣弥の前での乙女の姿や旅芸人一座での姉御肌なところなど、多面的に滝の白糸の人間が見えてくるのがこの芝居の要になると思っている。滝の白糸に惚れ込まないと、最後の裁判のシーンで夢中になれないのだ。
最適な演出だったのか?
滝の白糸役は中村壱太郎だった。線が細くたおやかな感じの方だったので、可憐で賑やかな滝の白糸ならもっと納得感があったと思う。
今回は全力で抑えた演技を要求されていた。役者ご本人は、もっとストレートで素直な方なのでは…?静かな中色気、情熱、狂気を滲み出して、こぼれ落とさなければならない……とても難しい形の滝の白糸だった。
恐らく坂東玉三郎風の演技なのだろう。どんなにすごい役者でも他の誰かになれる訳ではないと思うので、形だけ受け継ぐのに意味があるのだろうか。
横に広い歌舞伎座
歌舞伎座の舞台は極端に横に長い。今回の染み出させる芝居では、広い空間を持て余していたと思う。筆者もこぼれ出てくる何かを受信しようと、必死でオペラグラスを追ったが、中々受信仕切れなかった。写実的な装置なので、余計にそのガランとした空間が強調されていたと思う。
歌舞伎演目だと花道などを多用して、お囃子も舞台上にいるため空間に広がりが出る。新劇となってそれが全部抜けて、さらに行間を読むような芝居になると、物足りなくなってしまった。
滝の白糸を見せなかった意図とは?
極め付けは最終幕の後ろ姿だけで語らねばならないシーンだ。思い切ったな、と思った配置だった。
生涯でたった3回、その最後の再会が法廷になってしまった運命にも負けず、一途な愛を告白する2人に涙するはずのシーンだ。滝の白糸は、最後舌を噛み切るまで振り返らなかった。
滝の白糸の顔、見たかったなぁ…( ˘ω˘)
「あなたの贔屓があなたを妻と思って」って欣弥が言うシーンがぐっと来るのだ。暗に「私は例え2人の間に約束が無くても、あなたを妻だと思っている」って言われて、滝の白糸の一途な思いが報われるのだ。
そのセリフに滝の白糸こと、水島友の輝く素顔が見たかったなぁ…(少女漫画脳。誇り高く笑うのか、嬉しくて泣き濡れるのか、見たかったなぁ。
せめて花道で演じることで、客席の中に滝の白糸が埋まっているなどの臨場感があると良かったのではないか。または、お芝居なのでどちらも正面を向いていて、しかし向かい合って会話をしているように見せても自然だと思う。
あと、このシーンの窓から差し込む光に違和感を感じて、冒頭集中できなかった。
た、太陽ずいぶんと近いっすね・・・と思った。装置がモリモリだったので恐らくスペースがなかったのだと思うが、もう少しぼかす方が好きだなぁ。
誰のための舞台なのか?
事情はよくわからないのだが、坂東玉三郎風の誰かを見たい人がたくさんいるのだろうか。そして、坂東玉三郎の培った美学を詰め込んだ舞台が待ち望まれていたのだろうか。松也が新劇の系譜だ〜とか、壱太郎の父も〜など、成長を見守るのも歌舞伎の楽しみだと割り切るべきなのだろうか。2人の良さを最大限生かす演出は他にありそうだけど、それは歌舞伎ではできない禁じ手なのだろうか。疑問が多かった。
にざたまが光り輝く2演目を行った後での若手公演という順番といい、にざたま出せば貴方がた満足でしょ的な雰囲気があってそれが一番悲しかった。
思わず熱くなってしまったのは、もうちょっと色々組み合わされば、死ぬほど夢中になっただろうなと思ったからだった。写真は関係ない「くまどりん」人形です。くまどりん可愛いよ。
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