【ロンドン5】National Theatre 「The Ocean at the End of the Lane」

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どもどもケイです。イギリス旅行記の概要を終えられたので、舞台の感想を残していきたいと思う。

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ナショナル・シアター

オリヴィエ劇場、リトルトン劇場、ドーフマン劇場の3つから成り立っている国立劇場だ。現在の芸術監督は、ルーファス・ノリス。

ピカデリーサーカスやコヴェントガーデンなどの劇場街からテムズ川を渡り、ウォータールー橋のたもとに建っていた。

ちなみに終演後、ナショナルシアターから橋を渡って、パディントン駅付近の宿まで歩いて15分ほどで到着した。

ナショナル・シアター・ライブがきっかけ

本場イギリスの演劇をTohoシネマズの映画館で字幕付きで見られるナショナル・シアター・ライブ。ぽつぽつと通い始めて数年経ち、ロンドンで実際に観てみたいなぁと思ったのが今回のイギリス旅行のきっかけの1つである。

そして、海外でストレートプレイを見るのは初めてだったので、ドキドキの体験だった。

チケットはいつ?どこ?

旅行を予約したのが3月、予定を立てていたのが8月だったのだが、その時点でどんな演目が上演されているのかどうしたらチケットが買えるのか、皆目分からず途方に暮れてしまった(アンテナ低いマン。

分かったのが、オペラやバレエと一緒で、秋以降からシーズンが始まるということだった。2019/2020シーズンのチケットは、シーズン前にならないと買えないのだ。

シーズン前になると、ちゃんと演目一覧から分かりやすく購入できるようになっていた。

▶︎ナショナルシアターのWhat’s onのページ

▶︎ナショナルシアターの直近30公演のページ

3劇場あるので、同時上演は多くて3つ。

他の演劇の劇場

他にもチェックしておけばよかったなぁと思った劇場。

▶︎Bridge Theatre
ナショナルシアターと同じ岸の、ロンドン橋のたもとにある劇場。2020年2月2日までナルニア物語のライオンと魔女を上演している。枠足りず。

▶︎Playhouse Theatre
ジェームズ・マカヴォイ主演「シラノ・ド・ベルジュラック」を観た劇場。

▶︎Trafalgar Studio
プレイハウス劇場の向かいにあった。

▶︎Young Vic
ちょっと演目を理解できそうか自信がなく、今回は見送り。

▶︎Almeida Theatre
ちょっと遠い。

この辺のチラシが置いてあったので、次はチェックしてみたいと思う。

予習なしでは厳しいのでは?

筆者のリスニングレベル的に、原作がある、または翻訳されていて事前予習ができないと話についていけないのではと考えた。
そしてナショナルシアターのサイトを見ていて、アマゾン・プライム・ビデオのオリジナル作品として人気を博したドラマ「グット・オーメンズ」の原作小説の著者ニール・ゲイマンの小説「The Ocean at the End of the Lane」を舞台化した作品が丁度上演されている!

観たい作品が完売!

これなら予習もできるし、ファンタジー好きだし良いのでは?と思っていた。しかし、予約画面を見てみると・・・全公演完売!会場となっているドーフマン・シアターは座席数が少ないのだ。

後々、別会場で上演されていた「3人姉妹」もチェーホフの作品であることを知ったのであるが、
やっぱりThe Ocean at the End of the Laneが観たい!

そして思い出すのはブロードウェイ旅行記を書いている様々な方々のブログ。そういえば皆さん当日までチケットをチェックしていて戻りを捕まえていなかったっけかなと思った。
もしかしてウォッチしていれば戻りのチケットが出るのでは?

前日夜に戻りチケットを発見

そしてそして前日の夜に1席空席が!やったぜ!
戻りのチケット発券早速手配を始めたのだった。だが、ここで落とし穴があり、何度登録しても住所や郵便番号等の登録がうまくいかず手持ちの30分が切れてしまったのだ。

ナショナルシアターのサイトに戻るとチケットが完売している表示に変わっているので落胆した。
え、ぬか喜び・・・?泣く。

だがしかし普通に考えてそんなに短時間に入れ食い状態になるだろうか? その後数分待機していると、取得しようとしていた席が再び復活しているのを確認。

無事購入

iPhoneでうまくアカウントを作成できなかったので、タブレットに端末を切り替えて取得することにした。タブレット上だと、チェック項目にチェックしてくれ、住所がちゃんと入力できていない、パスワードを再度入れて欲しいなど注意書きがちゃんと出てきたので、それに従って試行錯誤しながら登録することができた。

1時間半の格闘の末に無事チケットをゲットできたのである。

予習は英語。

チケットを取得してから、「The Ocean at the End of the Lane」は日本語へ未翻訳であることを知った(無計画人間。
Wikipediaにあらすじがあったので、辞書を引き引き必死に読み込んだ。

The Ocean at the End of the Lane

ナショナル・シアターの中にあるドーフマン・シアター。大英博物館を観光後に、ウォータールー駅まで地下鉄で移動し、歩いて行ったのだが若干迷子に・・・。
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他の2劇場と違って、ドーフマン・シアターの入り口は裏手にあるのだ。

行き方を調べるうちに気がついたのだがウェブサイトの表示に注意書きがあった。

This production contains themes that some people may find distressing. It also contains strobe lighting.

まじか\(^o^)/
このストレスをかける演出に私は弱いのだ。何か怖いことが起こると言う予感がするとパニックを起こし、その場にとどまることができないほどの恐怖に襲われる。大体は重低音が流れ続けると、変な動悸が起き、そこから始まる。虚構と現実の区別を付けながら観ることができないのだ。
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せっかくのナショナルシアター作品なのに、途中で退場することになったら悲しいなぁ・・・。まぁ、その時はその時だ。

小劇場ドーフマン・シアター

若干迷子になりながら無事ドーフマン・シアターへ到着!
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ついにロンドンで観劇だぁ(この日が初日)、ナショナルシアターだぁ…と胸をときめかせながら入り、チケットを無事受け取った。
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ロビーは人でごった返していた。この後の日程の作品もそうなのだが、皆様ロビーでのコミュニケーションが活発なんですな。座席でおすわりして待つ文化ではなさそう。

幸せで胸がはち切れそうになりながら席に着くと、隣は小さな女の子。隣の隣も女の子のお姉ちゃん。前にも男の子がいた。子供たちと一緒に観劇するんだなぁとしみじみ感じた。
この後、開演直前に着席しているメンツをみるとなんと多様な老若男女、ただし白人中心といった感じだった。
女性多め、年齢層が高めの日本の客席の雰囲気とは全然違って、演劇が日常に息づいているのかなぁとジーンとした。

舞台セットが置かれた通路

会場が狭いのか、演出の一環なのか、劇場通路には舞台装置が無造作に置かれていた。私の座った上手側の通路には、(開演後に知ることになるが)主人公の家のテーブルや、ベッドなどが横倒しで置かれていた。
テーブルにはパスタが乗ったお皿が貼り付けられていた。

子供時代を描くダークファンタジー

「The Ocean at the End of the Lane(小道の行き止まりにある海=話の登場人物が、家の裏手の沼を海と呼んだことにちなんだタイトル)」はニール・ゲイマンの私小説だ。

話自体は、2重構造になっている。葬式に故郷に戻った主人公が、忘れていた子供時代のエピソードを思い出す外側。
内側は、主人公と隣に住んでいた不思議な少女レティとの冒険譚になっている。少年である主人公の家にある日やってきた女が、実は主人公の体から出てきた虫(謎な設定)でそれを隣の農場に住んでいた不思議な少女レティが魔法のような力を使って追い払う。
しかし、2人はそのまま闇の満ちる異世界に迷い込み、レティは結局主人公を守って、hunger birdsと呼ばれる異世界の化け物に食べられてしまう。
最後は外側に話が戻り、中年の主人公がその話を忘れていたのを思い出したことに気づく。実は主人公は何度もこの沼を訪れ、その度にレティが自分を守って失われてしまったことを思い出し、そして忘れているということを繰り返していることを示唆して話は終わる。
レティを呼ぶが、レティは二度と現れない。そんな彼女にありがとう、と言うノスタルジー溢れるシーンで終幕だった。

ニール・ゲイマンの心象風景を描いた私小説

5ポンド(ブロードウェイと異なり、どの劇場でもプログラムは5ポンドだった)のプログラムを買って読んだゲイマンの寄稿によると、ニール・ゲーマン自身の子供時代を奥さんに伝えるために作った作品ということだった。
ただし舞台や出来事登場人物等は創作のものであり、エピソードも心象風景によるものであって、事実とは異なるがしかし真実に近いということが説明されていた。

また万人に当てはまる思い出では無いが、1部の読者、人と関わるよりも本を読む方が安全だと思っている人には強く共感してもらえるだろうと言うことが記されていた。

大丈夫だった

ドキドキしていたのだが、親にしがみつきながら観る子供たちと隣だったので、勇気づけられたこと、大きな音が鳴っているときは諦めて耳をふさいだこと、作品自体が子供時代を振り返ると言うテーマからなのか、手作りを重視した演出であったため踏みとどまれたのも大きかった。

緻密に作り込まれた舞台

これは、後のマチルダやハリー・ポッターの感想にもつながるのだが、本当に緻密に手間をかけて作り込んだ舞台なのだなぁと嘆息した。タイミングや役者の立ち居振る舞い、セリフの自然さ含めて、なんというか複雑で、一朝一夕にはできないだろうということがビンビン伝わってくるのだ(語彙力。
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まず役者まで数メートルの小さな劇場で、ファンタジー冒険譚を描こうという意向がすごいと思った。出入り口は舞台左右と後方の3箇所に限定されていた。その中で、特に後方の部分にビームライトを設置して、奥行きを持たせて使っていた。
あちこちに仕込んだ照明とスモークなどを駆使しながら超常現象を表現していた。

大きな化け物のクモは人10人弱が操るパペットが使われ、化け物の鳥、森の茂みなども全て人が表現していた。マリアン・エリオット演出「エンジェル・イン・アメリカ」の天使のパペットみを感じたのだが、これは演出のKATY RUDOがそうなのか、イギリスの流儀なのかは分からなかった。

演出のKATY RUDOはブロードウェイでも上演された「Groudhog Day」や「夜中の犬に起こった奇妙な事件」のassociate directerのようだった。照明のや音響デザインのディレクターも夜中の犬のメンバーなので、そう感じたのかもしれない。

魔法のトリック自体はタネの分かるものだが、様々な工夫を凝らした不可思議な現象として演出されていて思わず引き込まれてしまう。

特に主人公は恐れ慄いて逃げ出そうとしているときに、少女レティが助けてくれるシーンが印象的だった。主人公にとって、レティはおそらく光そのものなのだけど、彼女が足を大きく踏むごとに会場に光が満ちて、レティ=光が視覚的にも伝わってくるのだ。

少年時代の主人公Samuel Blenkinはハリー・ポッターと呪いの子でスコーピオを演じたこともある役者で、なよなよぶりが堂に入っていた。帰ってきてからネット・フリックスでドラキュラを見ていて、第2話で印象的なピョートルを演じていておお!と思った。

ノスタルジー

話自体は父との関係、面倒を見てくれる女性と父との(性的な)関係、兄弟との関係、近所の農家、と言った関係を描いたものだった。
大人の目線で彼に何が起こっていたのかを、透けて見せるようなストーリー演出になっている。

後半になるに従って非現実的なことが起こりファンタジー感が増していくが、心象風景であると言うことが強く伝わってくるところがとても胸を揺さぶるような物語だと思った。
幼いニール・ゲイマンにはこのように世界が見えていたのだ、ということを追体験できるようになっていたからだ。

後に小説家になるような想像力豊かで繊細な少年、彼が周囲の人物との関係をどのように捉えて、そこからどう物語を生み出していたと言うことを汲み取れるようになっていたと思う。
忘れてしまった、少年少女時代の自分の世界に思いを馳せずにはいられない作品だと感じた。

不足する英語力

この劇に限らず、ストプレを見るにはあまりに英語力が足りないと歯噛みしたのが、今回のロンドン行きだった。
こう、あと一歩のところでベールの向こうの会話になってしまうというか、没入するには意味がつかめない部分も多かったのだ。
最後のシーンも、もし瞬時に理解できるのであればググッともっと胸を掴まれるだろうと思ったのだが、こう、ヒアリングに必死で、くっ悔しい、、、

英語勉強しよう、と思ったのだった。

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