どもども。1984と1789を間違えて言ってしまうし、なんだったら1894とかも言ってしまうケイです。
極限状態のウィンストンがどうするのか?に焦点が集まる作品だと思うのだが、結論から言うと見届けられませんでした\(^o^)/
なんてこったい\(^o^)/
不完全な観劇になったが、感想書きたい欲がすごいので残しておきたい。容赦無くネタバレします。
▼前回の小川絵梨子演出のミュージカル感想
▼前回の小劇場演劇の感想
「1984」
トランプ大統領の当選とともに販売を伸ばしたジョージ・オーウェル著「1984」。2013年にロバート・アイクとダンカン・マクミランの脚本によって舞台化がなされており、2017年にはブロードウェイへ上陸した作品だ。
新国立劇場では次期芸術監督であり、翻訳劇の演出で実績を積み重ねている小川絵梨子の演出。演劇の本場で話題になっている作品を、日本で日本語で見られる僥倖に感謝だなぁと思った。
小川絵梨子演出「1984」開幕、統制社会に疑問を持つ役人を井上芳雄が熱演 https://t.co/SoHPCwrctE pic.twitter.com/XkXZZ9PBQa
— ステージナタリー (@stage_natalie) April 12, 2018
原作と脚本
原作小説を読んでから劇場へ向った。ニュースピークの理論やビックブラザーの脅威について、舞台では解説や咀嚼時間が少ないので、結果的に目を通していてよかった。
原作小説「1984」
一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)
上演台本も手に入る!
楽しい曲を聴いて、恐怖と戦いながら現在進行形で紐解いている。ト書きが詳細だと思った。
悲劇喜劇 2018年 05 月号
恐怖と絶望
途中から、動悸と手の震え、目の前が明滅するようなパニック一歩手前になってしまって、耐えられなかった。こわいこわいこわいこわいたすけてたすけてたすけてだれか。
小劇場で逃げ場がなくてログアウトすら叶わない。耳を塞いで目をつむって今週見た別の舞台を心で再生して、101号室のシーンを最後まで過ごした。
肝心のシーンでも、吐きそうになっている自分自身をなだめることに必死でそれどころでなく・・・。
身体的な残虐さに加えて、大きな重低音、光の明滅。何より、相手の呵責への対応の正解が分からない中で、次々に問われる状況に。
よく考えたら電車のホーム通過ですら、轟音と速さと死の気配にすくんで固くなってしまうのだった。過去の絶望もよみがえる。ひ弱な筆者には、この舞台のレベルは高かったです。舞台ってすごいんだな。
見て見ぬ振りでいいのか?
その後台本を読んで、助けを求められていたのだということを理解。確かに、こちらへ向かって何か言っていた・・・。
ある意味、極限状態を追体験するという演出意図には沿っていたのかも?と開き直って感想を書いている。もはや助けを求められるすごく前に、見ないことにしたのだから。
ただ、辛いことからは逃げていい、というのがこの半生の学びなので諦めの境地だ。原作小説1984を読んだ時に、ラストにどこか救われたような気持ちになったのを思い出した。皆自分が可愛いのだ。脆弱なりに出来ることはあるのだろう。
前後半のコントラスト
ちなみに前半は、音や光も抑えめだった。ああ全国公演もあるし安心設計だと油断していた。
2分間憎悪のシーンも耐えられるか心配していたのだけど、放送音もスクリーンも罵声も小さくホッとしていた。
バケツで水をバシャーとかけられるあたりで、あ、待ってやばいんじゃ・・・とゾワっとしたが、そのまま真っ白い蛍光灯が灯って101号室が全貌を表した時には筆者涙目。これ、絶対あかんやつ・・・。
101号室にいるのか?
101号室の異質さを強調するために、前半は抑え目にしていたのだと思う。舞台の通り、実際の統制は無音で気付いた時には染め上げられているのだろう。「党が滅びたってどうしてわかるの?」とラストシーンでも触れられており、舞台は原作小説よりも現代への橋渡しが明確になされていた。
「自分がどこにいると思う?」と劇中で、ウィンストンは何度も問われていた。手にスクリーンを持って、相互に監視して、政府が堂々と嘘をついて、我々もまた今どこにいるのだろうと問う作品だと思った。
自分で思考を放棄することは恐ろしいんだよ、と何度諭されるよりもずっと、日常の裂け目を突きつけられたような気がするのだ。
全体を通しての感想
恐怖シーンにどうしてもフォーカスしてしまうが、そのほかの部分も覚書を残しておきたいところが盛りだくさんだった。
ということで、1984感想戦開始…
自分の理解じゃ足らなそうなので、各種参考図書で武装だぜ!
#1984 #新国立劇場 pic.twitter.com/771xbRMEUY
— ケイ (@key_s1014) April 14, 2018
井上芳雄とともさかりえ
毎回はじまるまで客席ウォッチングをしているが、前回の「赤道の下のマクベス」に比べると、客席が華やかな気がした。途中、井上芳雄氏がチューをおねだりするシーンは、ファンは卒倒するのでは。
エロシーンは朝チュン仕様だったが、人気役者であることを考えると攻めていたと思う。ともさかりえが素足なのに、作り手のこだわりを感じた。
原作のジュリアの肉感的で奔放なイメージに引きずられてしまったため、少しともさかりえがしっくり来なかった。
2人の間には遠慮があるような気がした。心から惹かれるというより利用し合っている関係を描いているのかな?もっとお互いにムンムン求め合う感じの方が好きだった。
モッタリスーツ
スーツが支給品設定のため、井上芳雄のスーツ姿が絶妙にクソダサだったのが良かったと思う。シルエットがモッタリしていた。
ともさかりえは、そのパーフェクツなスタイルで、モッタリも着こなしていた。ちなみに、にゃんにゃんシーン後は開襟、裾出しを通すので、ダサシルエットは冒頭限定だ。もう党に染まれないウィンストンを表現していると見せかけて、井上芳雄の見た目力底上げのためのルーズな着こなしであることに一票!実際、各種ニュースリリースの写真は、はだけたものをメインで利用している。
ディスプレイと映像
シーンをガッツリ映像で代替する作品を初めて見た! 各種セミナーなどで、そういう手法があるということは聞いていたので、来たー!となった。当初、下手側の大きな窓がディスプレイなのかと思っていたが、舞台の左右上部がスクリーンとなっていた。
映像は冒頭のウィンストンが日記を記入する手元、国民のデータを「非記入」する作業、2人が密会する部屋のシーンなどで繰り返し使われる。密会のシーンは観客が隠しテレスクリーンを通じて見ているような演出だったので、面白いなと思った。「お前たちは死人だ」のシーンはおお〜となった。機材操作の人も、とてもプレッシャーのかかるステージだと思う。
その場に「いない」子ども
また心に残ったのは、冒頭の図書館のシーンの子どもだった。大人たちが小説の勉強をしている間、ずっとiPadをいじっており、母親からここに「いない」はずと言われていた。もちろん、いまはいない次の世代の人たちを指すのだと思う。
筆者は見届けられなかったのだが、台本によるとラストシーンではウィンストンの皿から欲しかったチョコレートを掠め取っていたようだった。ウィンストンが母や兄弟から奪ったチョコレートを、子どもが持っていく・・・ほのかな希望を感じた筆者だった。
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